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最近になってようやく「大旗英雄伝」の原作小説を読み終えました。それにより、2007年にチャンネルNECOで放送されたドラマ版を見て以来抱いていた数々の疑問が解けた気がします。

当時このドラマが放送された時、日本の武侠ファンの反応は決して良いものではありませんでした。「登場人物達が理不尽な行動ばかりする」「どんだけ狭い世界なんだよと言いたくなる御都合主義展開」「主人公達が崖から落ちたり、気絶したり、盗み聞きばかりしている」といった突込み所が満載で、挙げ句の果てがあのラストシーンでしょう。主人公の鉄中棠とヒロイン水霊光が二人とも死んでしまうというのはあんまりじゃないか、と。毒神との戦いに主人公が無事勝って生き残り、凱旋してハッピーエンドでいいじゃないか、と誰もが思った事でしょう。さすがに制作側も気が引けたのか、DVD版では主人公カップルが生きて結ばれる別バージョンも同時収録したそうですが…。

ここで誰もが気になるのは「じゃあ原作はどうだったの?」という疑問でしょう。この作品の原作小説は今に至るも日本では翻訳出版されていないので、ストーリーの細部は多くのファンにとって今でも謎のままです(一部の中国語に堪能な人達は別でしょうが)。
果たして原作と比べた場合、あのドラマ版はどうなのか。

結論から言うと、2007年ドラマ版大旗英雄伝があのような内容になった(特にラスト)のは、やはり原作との関係からでした。日本のファンからよく突っ込まれた「登場人物達が理不尽な行動ばかりする」「どんだけ狭い世界なんだよと言いたくなる御都合主義展開」「主人公達が崖から落ちたり、気絶したり、盗み聞きばかりしている」というのはほとんど原作に忠実な展開だったのです。そう、実を言うとドラマ版大旗英雄伝は原作にかなり忠実な内容であり、多分ストーリー面の80%は原作通りと言えるでしょう。
問題は原作と違う残り20%の部分です。ドラマ版で大きく脚色・改変された部分というのは原作の不備を補う意味が大きいものでした。原作小説には活かしきれなかった設定や伏線(多分原作者の古龍が忘れていたのだと思う)、理不尽な展開などといった問題点が多数あり、それをドラマではかなり補強していたのです。そうした原作の問題点の中でも特に大きなものが物語後半での主人公(鉄中棠と雲錚)が全く活躍しないという事と、結末部分に他なりません。実は原作版大旗のラストは本当にひどい内容で、いくら何でもあれをそのまま映像化する訳にはいかないでしょう。日本の視聴者達はドラマ版のラストがひどいと口を揃えて言いましたが、あれでも原作に比べたらずっとマシでちゃんとお話になっていると思います。

古龍という作家は細かい部分毎の名シーンを考案するのは非常に長けていましたが、作品の全体構成をまとめるのが非常に苦手な人でした。名シーンやどんでん返しの連発で確かに読んでいても途中までは面白いのですが、ここまで波乱万丈な展開をしてきて「さあラストはどうなるの?」という所で収拾がつかなくなって投げやりな終わり方をするという作品が少なくありません。日本でこれまで翻訳がなされた作品(商業出版以外に有志による自主翻訳も含む)で言えば「聖白虎伝(原題 白玉老虎)」がその典型で、これなんかはまさしく少年ジャンプの打ち切り作品的な「本当の戦いはこれからだ!」というラストでした。他にもジャッキー・チェン主演映画の原作になった「剣・花・煙雨・江南」や、楚留香シリーズの最終作である「午夜蘭花」なども明らかに収拾がつかなくなったか、飽きて棄筆したなというのがあからさまに分かる結末です。「辺城浪子」の主人公の一人である傳紅雪を単独主人公にした「天涯・名月・刀」も物語後半部分が件のブログでも翻訳されていませんが、やはりラストは収拾がつかなくなって非常に矛盾だらけの苦しまぎれな終わらせ方でした。
大旗英雄伝もまたこうした「きれいに物語を終わらせられなかった古龍作品」の典型的な一つだったのです。ドラマ化にあたって脚色や改変を入れるのは当たり前だったと言えるでしょう。2007年版ドラマは飽くまでも「不備部分を直した、原作に忠実な内容」としてはそれほど悪い出来ではなかったと思います。ゴッドマーズ並みのアレンジをした最近の「流星剣侠伝 大人物」や同じくニコラス・ツェー主演による「浣花洗剣録」(こちらはまだ日本未公開)などとは明らかに狙い所が違うという事を踏まえておかねばなりません。

では大旗英雄伝の原作とドラマ版ではどのような部分が違っていたのか? 特に重要な部分について以下述べていきたいと思います。ただし以下の点を御留意下さい。

1 ドラマ版を全て見た方を対象にしたものであり、それを知らないと理解出来ない。
2 原作小説のネタバレである為、今後原作版大旗を何らかの形で読みたいので詳しい内容をまだ知りたくないという方にはお勧めしない。
3 原作小説は版本によって章の区切りが違うものが存在する。筆者が読んだものは全42章バージョンの韓国語訳版であり、それを元に解説を行う。

以上を御理解の上、お読み下さい。
(この項続く)

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【訳者より】
すいません。色々と忙しくて更新がしばらく途絶えてしまいました。その間にドラマ版の放送とは話数を大きく引き離されてしまいましたが、また駆け足で連載再開しますので御期待下さい。




正午が過ぎるや道行く人が段々と増えてきた。馬車に乗ったり馬に乗る人もおり、老いも若きもいた。
田思思は馬に乗ったある青年の身に赤い手拭が舞っているのを見かけた。手拭は青年の腕に結ばれていた。
当然秦歌ではなかったが、いずれにせよ江南から来た人間である事は確かだ。
(あの人はもしかして秦歌の事を知っているんじゃないかしら? 秦歌の消息を知っているかしら?)
田思思は窓の外に顔を出して呆然と青年を眺めて考えに浸る。ただ秦歌を訪ねる事にばかり熱中して、他の事は全て忘れてしまいたかった。
だがそうする事は出来なかった。
今の彼女は腹が減って死にそうだ。眠りたくても寝られないほどに腹が空いていた。お腹が空っぽな人間の頭の中を、どうして甘い思いが占める事が出来ようか?
田思思は我慢出来ずにまた顔を突き出す。
「ここがどこだか分かるの?」
「分からん。だが江南まではまだずっとある」
「ならちょっと休んだらどうなの? わ…私はちょっとお腹が空いて」
「何か食べたいのか?」
田思思は口ごもって言う。
「食べても食べなくても構わないけど…食べた方がいいわ」
楊凡は溜め息をついてつぶやく。
「いずれにせよ女達は大した事を言う。一日中食わなくても関係ないとは。俺ならとっくに腹が減っておかしくなってるだろう」
「私もおかしくなりそうよ」田思思が突然声を張り上げる。
楊凡は笑って答える。
「なら食べましょう。だが食うには金がいるけど、もしかして金はあるのかい?」
「そ…それは…」
楊凡は悠々と言葉を続ける。
「金もなしに行くというのはただ食いするという事だが、そんな人間はこっぴどい目に会うのがオチだろう。このくらいの棍棒で尻をしたたかに叩かれる気分は、腹が減るのと同じように耐え難いもんさ」
田思思は顔を赤らめたまま唇をじわじわと噛んだ。長い時間が過ぎてから、彼女が勇気を出して尋ねる。
「あ…あなたは金がないの?」
「少しはあるさ。だが俺の金は俺の金さ。俺の女房でもないあんたを食わせて行く訳にはいかないじゃないか!」
「誰が食わせていくっていうのよ?」
「食わせていく必要もなければ金もないというなら、もしやこのまま飢えながら江南まで行くつもりかい?」
田思思は動揺して口ごもりながら言う。
「な…なら金を稼いでみるわ」
「それはいい。どうやって稼ぐつもりだい?」
田思思はまた動揺して口をつぐんだ。
一生涯銅銭一つ稼いだ事のない彼女は、どのようにして金を稼げば良いか知る由もない。
しばらくして彼女は尋ねる。
「あなたの金はどこから出て来たの?」
「当然稼いだ金さ」
「どうやって?」
「金を稼ぐ方法は色々さ。技芸を売ったり拳法を教えるだとか、貨物を運送するというのもあるし、庭の見張り、薬作り、狩猟、給仕の仕事をしたり直接商売をする事も出来る。俺はどんな仕事も全てやってきたさ」
彼はにっこりと笑って言葉を続ける。
「ひもじい思いを思いをしたくなけりゃ、自分の力で生きていく能力がないと駄目だ。正々堂々と金を稼ぐなら、何をしようと恥ずかしい事がどこにある? ただあんたが何を出来るかはよく分からんが」
田思思は言葉がなかった。
彼女は何も出来なかった。彼女が出来る事で、金を稼げるようなのがなかったのだ。
楊凡が余裕げに言葉を続ける。
「金を使う事ばかり知って、稼ぎ方を知らない人間もいたんだな。そんな人間は飢えて死んだとしても同情に値しない」
田思思が怒って怒鳴る。
「誰があなたに同情しろって言ったのよ?」
「よし、まだ自尊心が残ってたようだな。だが自尊心の強い人間も空腹は耐え難いもんだ。いつまで我慢出来るかな?」
田思思は歯を食い縛った。今にも泣き出しそうだった。
楊凡が言う。
「俺が代わりに金を稼ぐ方法を教えてやろう」
「何ですって?」田思思が耐え切れずに尋ねた。
「俺の代わりに馬車を引くんだ。一時間で銀子一両やろう」
「銀子一両ですって?」
「まさか少ないとでも? 他の人達は多くても一時間で五銭程度にしかならないぜ」
「いいわ、一両よ。でも…」
「でも何だい?」
田思思は顔を赤らめて答える。
「私は一度も馬車を駆った事がないのよ」
楊凡は笑って答える。
「それは関係ない。人なら誰でも馬車を引けるんだから。たかが馬も駆れないなんて、人じゃなくてロバだぜ」
ついに田思思は生まれて初めて、自分の力で金を稼ぐ事になった。
この銀子一両は本当に苦労して稼いだ金だった。一時間の間馬車を引いていると、腰か背中まで痛くない所はなかった。肩も麻痺したようにコチコチになり、鞭を強く握っていた手からは血が出そうだった。
楊凡の手から銀子を受け取った瞬間、彼女は涙を流す所であった。悲しみの涙ではなくまさに喜びの涙である。初めて苦労して得た代価を享受する喜びであった!
彼女を眺める楊凡の瞳に光が差す。彼は微笑んで言う。
「もう金が出来たんだから、行って飯を食えるだろう」
田思思は胸を叩いて大きな声で言う。
「分かってるから、手助けする必要はないわ」
彼女は銀子を強く握った。この小さな銀片が、普段大事にしていた宝石を埋め込んだ髪飾りよりもさらに貴重に感じられる。この世の何者も自分の手中にある銀子を奪う事は出来ないという事を悟った彼女であった。


さほど大きくない村である。
田思思は胸を大きく張って、一番近い所にある食堂を探して入って行った。手には銀子一両しかないが、まるで億万の金を持った富者にでもなった気分である。今までこれよりも富裕だった事はなかったと思えるほどであった。
給仕は疑い深い目で彼女を値踏みしたが、それでも近付いて彼女に茶を注いだ。
「お嬢さん、何にしましょうか?」
田思思は一息に茶を飲み干すと口を開く。
「椎茸はあるかしら?」
いつどこでも椎茸料理は金のある者だけが食べられる物だ。
給仕は上下に彼女を観察して答える。
「そりゃありますよ。何しろ遠くから運んで来た物なんで、値が張るのが玉に傷ですが」
田思思は持っていた銀子を卓に置いて言う。
「関係ないわ。とりあえず椎茸と火腿(中華ハム)を盛り合わせて、鶏一匹を茹でてちょうだい」
今度こそは思う存分食べるつもりであった。
給仕は銀子をちらりと眺めてから冷たく言う。
「椎茸と火腿を盛り合わせた鶏は五両ですが、本当によろしいですか?」
田思思は動揺した。
しばらくして、彼女はゆっくりと手を伸ばして卓上の銀子を伏せた。
彼女の頭の中には価格という概念が全くなかった。銀子一両にどの程度の価値があるかも全く知らなかったのだ。
今こそ彼女は金の価値というものを知る事になった。
給仕が言う。
「銀子一両ですとうちの店の料理では定食しかありません。おかず一つに汁一つ、御飯一杯あればお腹一杯に召し上がれるでしょう」
銀子一両ではどうにか「定食」だけが食べられるに過ぎない。一時間の間苦労した代価がその程度に過ぎないのだ。
田思思は涙を堪えて言う。
「いいわ。定食を下さい」
その時何者かの声が聞こえて来た。
「椎茸と火腿を盛り合わせた鶏一羽をくれ。炒め物三・四品と花雕酒二斤も一緒に」
いつ来たのか、楊凡が入って来て彼女の丁度横の卓に座っていた。田思思は歯を食い縛ったまま彼を無視する。彼の言葉を聞きもしないかのように、そちら側には見向きもしなかった。
料理が出ると彼女はうつむいたまま食べ始める。だが横から漂ってくる芳しい鶏の匂いが彼女の鼻を突いた。だからといって息をしない訳にもいかない。
田思思は歯ぎしりして言う。
「豚みたいに太った格好でおまけにあんなに食べるなんて。暮れのお供え物にでもなるつもりのようね」
楊凡はそれでも腹を立てずに笑って受け答える。
「俺はあんたよりも能力があるし金もよく稼ぐ。だからあんたよりよく食うのは天の真理にも等しいもんさ。だれがそんな事に腹を立てるかね」
この村は特に大きくはないが食堂はかなり大きい方で、大部屋まであった。
突然大部屋の中からきれいに化粧をした出て来て、しゃなりしゃなりと会計へ歩いて行った。彼女が手を差し出して言う。
「牛旦那様が銀子一〇両を持って来いとの事です」
主人は苦笑いを浮かべる。
「知っている。牛旦那は、今日来るお嬢さんが席に座るだけでも銀子一〇両を謝礼に差し出すようお言い付けだ」
彼は銀子一〇両を女に渡して笑ってみせる。
「お嬢さん達は本当に容易く金を稼ぐものだ」
女は銀子を受け取ってしゃなりしゃなりと歩いて行った。不意に彼女が振り返り、にっこり笑って言う。
「あなたも私達のように容易くお金を稼ぎたいのかしら? だったら奥さんと娘さんが出て金を稼げと言うべきでしょう?」
主人はすぐに苦虫を噛み潰したような表情になった。
田思思はじっと聞いていたが、楊凡が口を開く。
「あんたもあの人らが自分より容易く金を稼ぐと思うかい?」
一時間の間馬車を駆ってもたかが一両なのに、ただ座って立つだけで銀子一〇両を稼ぐのだから確かに不公平な話だ。
楊凡がさらに言う。
「傍目にはあれらが簡単に金を稼いでるように見えるだろう。でも彼らが売っているのは青春と恥じらいさ。誰でもそれを売れば簡単に金を稼げるが…」
彼は嘆息しながら言葉を続ける。
「あんな風に金を稼ぐのは、容易くも苦痛な事だ。努力と能力で稼いだ金だけが恥ずかしくないもんさ」
田思思は知らずのうちに頷いた。彼の言う事が大変一理あるように感じられたのだ。彼女は初めて、この猪八戒が自分の思っていたほどに愚鈍ではないと思えてきた。
(頭の大きい人は本当に他の人よりも多くの事を考えるようになるのかも?)

第八章 西方浄土へ行く道で


正午である。
太陽が中天に昇った。
木陰の下か海岸か、水上の楼閣のような所に座って風を受け、氷を浮かべた酸梅湯一杯を嗜んでいると考えてみよう。間違いなく喜びに満ちた心でこの世が大変美しく、太陽までも輝煌燦爛に感じられる事だろう。
だが熱い太陽の下で灼熱の日光に熱された石道を歩いてれば、決して楽しい気分ではないだろう。
怒りが冷却する頃、田思思は自分があまりに疲れて、暑くて、だるくて散々な状態だという事を悟った。まるで悪夢を見ているかのようで、呼吸するのも辛い。
真っ直ぐ前に伸びる道は果てしなく見え、日光を反射して光る石ころは、あたかも熱い湯でゆでた玉子のようだ。
前に見える木陰の下に、酒と肴を売る屋台が設置されていた。何人かが囲むように座って左手には杯を、右手には麦わら帽子を持って、酒が熱すぎるのではないかと文句を言っていた。だが田思思の目には、これらがまるで神仙のごとく幸せそうに見えた。
「幸福な者には幸福がどのようなものか分からない」という。今こそ田思思はその言葉がどんな意味か知る事が出来た。二日前の彼女であればあの程度の肴は犬に食わせる物だと考えていた所だが、今は誰かが彼女に酒一杯を差し出そうものなら涙を流すほどに感動する事だろう。
彼女は本当に酒を何杯か飲みたかった。唇が乾き過ぎてひび割れていたのだ。だがあの酒も金を出して買わねばならない。田お嬢様は家を出て生活した試しはないが、この程度の道理はよく分かっていた。
今彼女の身には金など一銭もない。
田お嬢様はいつも口さえ開ければ願う物を何でも食べる事が出来た。その為に今まで「金」という物がどれだけ大事な物かを知る機会がなかった。
(あの猪八戒は金を持っているはずよ。私に少し貸してくれないかしら?)
金を借りようと考えて、彼女はすぐに顔が赤くなる。本当に借りる用が生じた所で、死んでも口を利けないようだった。
木陰の下にいた人々が彼女をじろりと眺める。彼女はうつむいて歯を食いしばったまま大股でそこを通り過ぎた。
(猪八戒の奴はどうしてまだ付いて来ないのよ? とっくに酔って倒れたんじゃないでしょうね?)
少し前のあの家で食べ物を食べずに出たのを大きく後悔した。「食わなきゃ損」という楊凡の言葉が一言一句正しかった。
背後で馬の蹄の音がする。田思思が振り返ってみると、遠くから馬車が走って来るのが見える。誰かがだるそうな様子で馬車の先に座って面倒臭そうに鞭を振るっている。細長い目を開けているかいないか分からず、口元にはだらけた微笑を浮かべたままだった。
このうわばみは酔って倒れずに付いて来たのだ。彼の楽そうな姿は田思思の姿とは天と地ほども違いがある。
田思思は歯を食いしばる。
(間違いなく扉の外にあった車だけど、どうして私はあれに乗って来なかったんだろう? 先に出たのは私なのに、よりによって猪八戒だけが楽に来られるよう放って置くなんて!)
もはや彼女としてはあの猪八戒が自分を乗せてくれるのを待つ以外になかっのだ。
だが楊凡は彼女を無視する。彼女の姿など視界に入っていないかのように周辺をのらりくらりとして馬を引いているだけだった。見ないならいざ知らず、このような姿を見てしまった瞬間、田思思は怒り心頭に発した。
彼女は耐え切れずに怒鳴る。
「ちょっと!」
楊凡は目を開けてからまた閉じた。田思思がそちらへ歩いて行ってまた呼ぶ。
「ちょっと、耳でも遠くなったの?」
楊凡は目を大きく開けてだるそうな声で尋ねる。
「今どなたと話してるんだい?」
「当然あなたに言ってるのよ。もしや私がこの馬達と話してるとでもいうの?」
「俺の姓は『ちょっと』じゃないし、俺の名も『ちょっと』じゃない。あんたが俺に話し掛けてるのかどうかどうして分かるんだ?」
田思思は言い換えた。
「ちょっと、楊さん」
楊凡はまた目をつぶる。田思思がかっとなって怒鳴る。
「楊さんって言ったじゃない。まさかあなたの姓が楊じゃないとでもいうの?」
「楊の姓を持った人はすごくたくさんいる。その中で誰を呼んでるんだい?」
田思思は腹を立てて言う。
「ここであなた以外に楊氏がどこにいるの? まさかこの馬達の姓が楊氏だとでもいうの?」
「楊氏かもしれないし、田氏かもしれない。こいつらに直接聞いたらどうなんだ?」
彼はあくびをして言葉を続ける。
「俺に言う事があるなら楊大兄と呼びなさい」
田思思はさらに腹が立って、彼を睨んで言う。
「私が何の為にあなたを楊大兄と呼ばなきゃいけないの?」
「第一に俺の姓が楊氏であり、第二に俺はあんたより年上で、第三に俺が男だからだよ。あんたが俺を楊姉さんと呼べる訳ないじゃないか」
そうしてからだるそうな微笑を浮かべて言葉を続ける。
「だからといって楊叔父さんと呼ばれたら、ちょっと耐え難いんでね」
「死になさいよ豚、猪八戒!」
「豚の言葉が分かるのは豚だけだろう。あんたはあまり豚には見えないが」
田思思は歯を食いしばってそっぽを向いてしまった。二度と彼とは関わるまいと考えながら。
その瞬間、口笛の音と共に楊凡が鞭を振るう。車は彼女の脇を矢のように通り過ぎた。
前に広がる道は永遠に終わりがないようで、太陽は徐々に大きくなるかのようだった。ずっとこのまま歩いていたら、耐えられたとしても身が持たないだろう。
田思思は困った果てに大声で叫ぶ。
「楊大頭、待って!」
わざと「大」の字は大きく言って「頭」の字は小さく言ったので、遠くから聞けば「楊大兄」と言ったようだった。果たして楊凡が手綱を引いて振り返った。
「お嬢さん、何の用だい?」
田思思は「フハハ」と笑いをこぼした。苦労の果てに便利に行ける術をつかんだのだから、その笑いは一層甘く楽しそうに見えた。
天下のどのような女が便利に行ける術を嫌がるものか?
田思思は目で笑って言う。
「その車には誰も乗っていないようだけど、私を乗せてもらえないかしら?」
楊凡が笑って答える。
「もちろんさ」
「約束したんだから、また私を放って行きはしないでしょうね?」
「当然の事さ」
彼が言葉を言い終えないうちに田思思が車の中に飛び乗った。彼女は窓の外に首を出してけらけらと笑う。
「あなたはさっきよく聞き取れなかったみたいだけど、私は楊大兄じゃなくて楊大頭と呼んだのよ。あなたの頭は普通の人の頭三つを合わせたのよりもさらに二倍は大きいわ」
彼女はこの頭でっかちが腹を立てるのを願っていた。だが楊凡は腹を立てるどころかにっこりと笑って受け答える。
「頭が大きいというのは聡明な証拠だ。俺は小さい時から自分が賢いのを知ってるから、敢えて教えてくれなくてもいいさ」
田思思は口を尖らせて「バン」と窓を閉めてしまう。
楊凡が大声で笑って鞭を振るった。馬が前に進み始めると、彼は笑い声でつぶやき始めた。
「頭でっかち、頭でっかち。雨が降っても心配ない。みんな傘を差すが、おいらにゃでかい頭があるから…。頭でっかちがどれだけいいか、あんたもこれから少しずつ分かるだろう」
生まれついての幸運があって、常に楽しく暮らす人間もいる。楊凡がまさにそんな人間だ。こんな人間を怒らせるのは、どのような者にとっても容易い事ではない。


(自分が新郎だなんて、一体何者なの?)
床に倒れていた田思思は怪訝に感じて顔を上げる。背が低く太った青年も偶然彼女を眺めていた。明らかに知っている人間ではなかったが、どこか見覚えがあるような気がした。
青年がゆっくりと口を開く。
「俺の名は楊凡。ポプラの木の『楊』の字に平凡の『凡』の字を書く」
普通の若者に比べてやや太っているのみで、本当に平凡この上ない人間であった。太っている事以外は他の人間を超えている部分など何もないかのようだ。
だが「楊凡」という名は田思思を仰天させた。それで彼女は彼が何者か思い出した。
昨夜花の木の林で父の後ろに立っていた、あの太った青年であったのだ。彼こそ大名府の楊三爺の息子にして、田思思の耳にまで怪物との噂が聞こえていたあの人物だ。
彼は十日十晩素面でいた試しがないという。素面の時は寺を訪ね、酒に酔えば遊郭を訪ねるような人間であった。おまけに怪物らしく、どこへいようとあまりにもよく適応した。ただ一つ適応出来ない場所は家であった。歩き始めた時から楊三爺でさえ息子を見かける事が少ないという噂もある。彼は色々と不思議でおかしな事をやりつくしたが、まともな事はほとんどしないという噂も聞こえていた。
田思思は父が何故に自分をそのような者と結婚させようとしたのか全く分からなかった。その怪物がここに現れようとはさらに予想も出来ない事だった。
葛先生もやはり彼が怪物と思ったのか、長らく彼を仔細に眺める。突然彼が笑いを浮かべる。田思思は初めて彼の笑う姿を見た。彼が笑えばどんな姿なのか想像も出来なかった彼女である。彼は元より笑う事を知らぬ人間と考えていたのだ。
だが今や彼は明らかに笑っている。
陰惨で冷たい顔に浮かんだ笑いとは、言葉で説明し難いほどに異常この上ない。その姿を見た瞬間、田思思はまるで死んだ人間が笑うのを見たように寒くなった。
葛先生は笑って言う。
「どうやら貴様も新郎になりに来たのか」
楊凡が淡々と答える。
「新郎になりたい気はないが、来ない訳にはいかなかった」
「来ない訳にはいかなかっただと? 誰かに押されたとでも言うのか?」
楊凡は溜め息をついた。
「女房が他人の新婦になろうとしているのを、黙って見ている人間がどこにいる?」
「女房?」
「まだ完全な女房じゃないが、ほぼ同じだ」
葛先生が冷たく言い返す。
「彼女はわしに嫁ぐと約束した」
「だとしても関係ない」
「関係ないと?」
「何の関係もない。彼女の父がすでに俺と結婚させる事に決めていたんだから。父母の命令はもちろんの事、仲人になった人間もいるから合法的な事さ。誰も反対は出来んだろう」
葛先生は長らく沈黙していたが、再び口を開く。
「どうやら貴様が彼女を連れて行けないようにする方法は一つしかないようだ」
「そんな方法は全くないようだが」
「ある。死んだ者は妻を娶れまい」
楊凡は笑った。
これもまた田思思としては初めて見る笑いだった。彼の顔はどこか特異でおかしい。特に細長い目からは説明し難い威嚇的な光が漏れ出ており、背が低く太っているばかりか極めて平凡に見える彼に非凡な企てがあるような雰囲気を加えていた。その為に誰も彼にやたらな事が出来ないようだった。こうした訳でこの家にいる者の誰もが彼を追い出す気になれなかったのだ。
だが笑いを浮かべた瞬間、彼は変わった。大変暖かく人情に溢れた人間のように変わったのだ。丸々と太った顔までもが好感が感じられるほどだ。彼を嫌っていた人間でさえも、その笑う姿を見れば憎しみが消えてやや親しみを感じるかのようだった。
突然田思思は彼が早く逃げてくれたらという気になる。早く、そして遠くに逃げるほど良かった。彼が葛先生の手によって死ぬのを望まなかったからだ。
葛先生の武功がどれほどすごいかを彼女はよく知っていた。あまりに愛らしく笑っている太った青年が、しわの間に血を流して強張った笑いを浮かべたまま倒れるのを見たくなかった。
田思思は葛先生の手によって五人も殺されるのを直接見ている。最も恐ろしいのは、彼ら五人が突然に死を迎えたという事であった。頭に穴が開いた為だが、葛先生が一体どんな方法で彼らを殺したのか全く分からない。特にあの太った青年の額は広く飛び出していて、葛先生が技を発揮するのははるかに容易そうだ。田思思は彼が頭から血を流して倒れる姿を想像出来た。
幸い葛先生は攻撃しなかった。依然として動かないままその場に立っているのみである。だがもう一度酒をあおっていた楊凡が、突然手にした杯で額をかざす。続いて杯から「キン」という音がした。
葛先生の顔色が一気に変わる。
楊凡はゆっくりと杯を下ろして仔細に確かめる。そうして頭を左右に振ってから長く溜め息をつく。
「猛烈な暗器だな。実にすごいもんだ」
田思思は動揺した。
まさか葛先生は手も動かさないまま、気配もなく暗器を発射したというのか?
そしてまさかあの太っちょがその暗器を杯で防いだというのか?
葛先生の暗器は一瞬で人の命を奪っていく恐ろしい物だった。一撃で人間の頭に穴を開けるほどなのに、どうして今回はあの小さな杯一つ割る事が出来なかったのか?
田思思には全く分からなかった。あの太っちょがそれほどとてつもない能力を持っているという事を信じられなかった。だが葛先生の顔はなぜあのように歪んだのか?
楊凡は溜め息をついて言う。
「こんな暗器で人を殺せば寿命が一〇年は縮むもんだ。俺なら絶対に使いやしないのに」
長らく言葉のなかった葛先生が不意に口を開く。
「以前にこの暗器を見た事があるのか?」
楊凡は首を横に振る。
「初めて見るな」
「わしの暗器を防いだのもおぬしが初めてだ」
「初めがあれば二度目もあるもんで、二度目があればまた三度目があって当然だろう。さらに言うなら、この暗器はもう役に立たんから、あんたもこれからは使わないのがいいだろう」
葛先生はまた沈黙した。長い時間が過ぎて彼がまた尋ねる。
「宋十娘とはどのような関係だ?」
宋十娘は天下第一の暗器の高手である。暗器を受ける事はもちろん、放ったり作る事もやはり天下第一であった。江湖者にとって宋十娘は間違いなく一流の大人物である。
田思思もやはり人々がその名を話題にするのを度々聞いた。女だったから良かったものの、男であったら明らかに彼女の候補に上って、自分の理想の人間かどうか見に行くと言い出しただろう。
だが楊凡は再び首を横に振った。
「その名も生まれて初めて聞くな」
「宋十娘について聞いた事もなく、このような暗器も初めて見たというのか?」
「もちろん」
「だがおぬしはあの暗器を受け止めた」
楊凡はにっこりと笑って答える。
「受け止められなかったら俺の頭に大きな穴が開いてたろう」
葛先生は彼を凝視して、ついに長く溜め息をつく。
「どのように防いだか教えてはくれまいか?」
「いいや」楊凡が答えた。
「ならばわしに返してはくれぬか?」
「いいや」
楊凡は不意に笑いを浮かべて悠々と言う。
「だがあんたが這って出て行くなら、それについては反対しないぞ」
葛先生はそれ以上口を利かなかった。
そして這って出て行った。
田思思は自分の目を信じられなかった。
葛先生を直接見た人間であれば、彼が岩よりも強く、氷よりもさらに冷たいという事が分かるだろう。生きている人とは思えない、そんな人間であった。そして彼の顔には決して表情というものがないと考えて当然だろう。
だがこの太っちょを見た瞬間、彼の顔には様々な表情が表れた。笑いもし、ほとんど泣きそうな表情を浮かべもした。さらに悲惨な表情で這って出て行きもしたのだ。
この太っちょは本当に並みの技量ではない。
だが田思思はいかに確かめても、彼のどこにこれほど大した能力が隠されているのか知りようがなかった。外見は馬鹿としか思えないように見えたのだ。
田思思に見抜けなかったように、他の人間達にも見抜けなかった。人々の目は玉子のように大きく見開かれ、口もまた玉子を二つも頬張ったように大きく開かれた。
再び酒を注いだ楊凡が不意に笑って言う。
「そのままお座りなさい。座れるのにどうして立っているんですか? ちょうど美味しい肴もたくさんあるのに食わなきゃ損でしょう。どうしてそんなに謙遜しているんですか?」
本来ならば彼が何を言おうと全員が鼻で笑っていたところだが、今は彼の一言が即ち命令であった。彼が言葉を言い終える前には、この家で立っている者は誰もいなくなった。
だがこの時まで座っていた田思思が急に素早く立ち上げる。彼女は大股で扉に向かって歩いて行った。楊凡はそちらに見向きもしないまま悠々と言う。
「葛先生はまだ遠くへは行っていないだろうから、今出れば探し出せるだろう」
瞬間、田思思の足は床に突き刺さったようにぴたりと止まった。彼女はさっと振り向いて太っちょを睨み付ける。
それでも楊凡は彼女を見もせずに杯を上げた。
「俺は一人で酒を飲むのが一番嫌なんだ。どうして俺と一緒に酒を飲まれんのかな?」
それから首を逸らしたまま杯に注がれた酒を一滴も残す事なく飲み干した。
突然田思思が身を返して彼の前へ歩いて行き、大声で言う。
「うわばみのようね! いっそ瓶ごと飲んだらどうよ?」
「俺の口は大きいのに、あの瓶は口が小さすぎるじゃないか」
楊凡は何事もなく答えては、思わず田思思の小さい口をちらりと眺めて笑いながら言葉を続ける。
「一つは大きくて、一つは小さい。うまく合わせようとしても到底合わんだろう」
田思思は顔を赤らめたまま歯ぎしりする。
「あまり格好付けないでちょうだい。私を助けてくれたけれど、別に大した事じゃないじゃない」
「俺が助けてやったのを認めるのかい」
「フン」
「なのに何で感謝すらしないんだ?」
「あなたが勝手にやった事なのに、どうして私が感謝しなきゃならないの?」
「そうだ、そうだ。確かにその通りだ。俺は本来腹一杯食えさえすればそれまでだから」
田思思は唇を噛んで立っていたが、急に声を張り上げる。
「いずれにせよ、私があなたの嫁に行くなんて夢にも思わない事ね!」
「本当かい?」
「そうよ」
「決心したのかい?」
「そうよ」
「心変わりするんじゃないだろうね」
田思思はさらに大きな声で叫ぶ。
「行かないと言ったら行かないのよ。死んでも行かないわ!」
突然楊凡が立ち上がり、彼女に向かって丁寧に礼をする。
「ありがとう、ありがとう。本当にありがとう」
田思思は驚いた。
「何がありがたいの?」
「あんたに感謝し、天と地にも感謝しよう」
「変な病気にでもなったの?」
「特に病気はないが、疑い病というのがちょっとあるな」
「何が疑わしいの?」
「あんたが俺のとこに嫁ぎに来るんじゃないかと心配なのさ。それは実に恐ろしい事だ」
田思思は大声で怒鳴る。
「私があなたに? 狂ったの?」
楊凡はにっこりと笑って言う。
「幸い今は大丈夫だ。恐ろしくもないし。あんたが俺の嫁に来さえしなければ、他の事は何を話し合っても構わんさ」
「あなたと話し合う事なんてないわ」田思思が冷たく言った。
楊凡はそれでも笑って言う。
「田伯父上がどうしてもあんたを俺にやるとおっしゃったらどうする?」
田思思は暫く考えてから口を開く。
「家に帰らなければいいわ」
「いつかは帰らなきゃならないじゃないか」
楊凡の言葉に田思思は再びじっくりと考えてみた。
「他の人に嫁いでから帰るわ」
楊凡が拍手しながら笑う。
「良い考えだ。実に結構なお言葉だ」
だが彼はまた眉をひそめて尋ねる。
「だが誰に嫁がれるおつもりかな?」
「それはあなたの知った事じゃないわ」
楊凡は溜め息をつく。
「そりゃ知った事じゃないが、もしかして嫁に行けないんじゃないかと心配になってさ」
田思思は逆上して声を張り上げる。
「行けないですって? 私を好きになる人がいないとでもいうの? 私がブスにでも見えるというの?」
楊凡は苦笑いを浮かべる。
「そりゃブスじゃないが、あんたみたいなお嬢様の性分に誰が耐えられるかね?」
田思思は歯ぎしりする。
「そんな事まであなたが心配する必要はないでしょう。自然にもらってくれる人がいるでしょうから」
「向こうの方でもらってやると言っても、あんたが受け入れられないから問題だろう。例えば葛先生だとか…」
葛先生という言葉を聞いた瞬間、田思思の顔はただちに青白くなった。
楊凡が落ち着いて言葉を続ける。
「だが彼も本当にあんたと結婚するつもりじゃないだろう。おそらく他の魂胆があるはずだ」
田思思は耐え切れずに問いただす。
「他の魂胆ですって? どんな魂胆があるというの?」
楊凡は首を横に振る。
「どんな魂胆かは俺にも分からん。ただ彼は目的を達成した後はあんたを捨てるだろうし、その時にあんたが俺に嫁ごうものなら余計大変だから、それが心配なのさ」
田思思は怒り心頭で顔が真っ赤になった。
「安心してちょうだい。尼になろうともあなたには嫁がないから」
それでも楊凡は首を横に振った。
「それでは駄目だ。世の中の事はどう転ぶか分かったもんじゃないから」
田思思は怒りを抑えて冷笑を浮かべる。
「もしや自分が美男子だとでも思ってるんじゃないでしょうね? 私があなたの何を見て嫁に行くというのよ?」
「美男子でも構わんし、猪八戒でも構わんよ。ただ俺としてはあんたが他の人の所へ嫁に行ってこそ、やっと安心出来るんでね」楊凡は淡々と言った。
「いいわ、急いで結婚してあげましょう。結婚したらすぐにあなたに伝えてあげるわ」
田思思はまさしく狂ったように腹が立った。実際に心配すべき人間は彼女の方だったが、意外にもこの猪八戒の方が先手を打ったのだ。今や彼を見るだけでも怒が込み上げる。その為、この言葉を言い終えるや否や身を返して出て行こうとした。
だが楊凡がまた彼女を呼ぶ。
「ちょっと待った」
「何よ? それでも安心出来ないの?」
「まだ引っ掛かる事がある。あんたが嫁に行く前に死んだらどうする?」
「私が死のうと死ぬまいとあなたに何の関係があるの?」
楊凡は真顔になって言う。
「もちろん関係があるさ。今のあんたは名分上は楊家の人間と言う事になってる。あんたに何かあったら、俺が出て行って解決しなきゃならないんだよ。万一死にでもしたら仇討ちまでしなきゃならないのに、それがどれだけ面倒だと思う? 俺という人間は面倒事が一番嫌いなんだ。だからどうして安心出来るんだい」
田思思は腸が煮えくり返ったが、やはり冷笑して言う。
「私は死なないわ」
「そりゃ分からんだろう。あんたみたいに高貴なお嬢様は誰が騙そうとするか全く分かったもんじゃない。ましてや…」
彼は一呼吸して言葉を続ける。
「ましてやあんたはいつ花婿候補を見つけられるか分からない状態だ。反面、田伯父上はいつでもあんたを捕まえられるから、そうなったらやはりおれに嫁ぐしかなくなるだろう?」
「なら一体どうしたら安心出来るのか、あなたが一つ言ってごらんなさいよ」
「俺に方法がある」
「どんな方法よ?」
「誰の嫁に行くか言ってくれれば、俺があんたをその人の家の前まで送ってやろう。結婚すればそれ以上俺とは関係ないから、俺もまた安心出来るじゃないか?」
田思思は冷笑する。
「あなたがそれほど周到綿密な人とは知らなかったわ」
「過分なお褒めで。実際俺も普段は大雑把な人間さ。ただこういう事には決して大まかにはなれないだけだ。女房を娶るというのは全く面白い事じゃないな」
田思思は依然として冷笑を浮かべたまま彼を眺めている。あまりに腹が立って言葉すら出なかった。
楊凡がまた言う。
「だから結婚したい相手がいるならはばかりなくお言いなさい。俺が間違いなく連れて行ってやろう」
田思思は唇を噛む。
「秦歌よ」
楊凡は眉をしかめた。
「情哥(恋人)? あんたの恋人が誰なのか俺にどうして分かるもんか」
(訳注 「情哥」と「秦歌」は中国語で発音が類似)
田思思は彼の頬に一発食らわせてやりたい心情であった。
「秦歌と言ったのよ。秦の国の『秦』に歌の『歌』の字よ。あの人の名を聞いた事もないの?」
楊凡は首を横に振る。
「聞いた事ないな」
田思思は冷笑して言う。
「田舎っぺが、食べる事以外に何が分かるのよ?」
「酒の飲み方は知ってる」
楊凡はこのように答えてから、これ見よがしにまた酒を飲む。
「いいだろう。秦歌と言ったのだから俺が間違いなく彼を探してやろう。だが彼があんたを受け入れてくれるかは保証出来ないぜ」
「それは私のやる事だから、分かった上でやるわ」
「あんたを手伝って彼を探す事は可能だが、その前に三つ約束してもらう事がある」
「三つですって?」
「一つ、はっきりとさせておくが、俺は絶対にあんたを女房にしないし、あんたもやはり絶対に俺の所には嫁がない」
「じつにいいわね」
「二つ、一緒に行くがあんたはあんたの好きに、俺は俺の好きに行く。あんたが何をしようと俺は絶対に干渉しないし、あんたもやはり俺に干渉しない」
「それもいいわ」
「それと三つ、もしあんたが気に入った人間に会ったらいつでも嫁に行く。そして俺も気に入る人間がいたらいつでも結婚する。絶対相手の私生活に干渉しない」
「いいわ」
田思思は怒り心頭だったが、いいという言葉しか言う事がなかった。本来自分から切り出すべき条件だったが、意外にもこの猪八戒が先手を取ったのだ。
この家にいた人間達はいつ出て行ったのか、この頃には誰もいなかった。楊凡は一気に三杯を飲み干してから笑って言う。
「いずれにせよあんたのお蔭で祝い酒をたっぷりと飲めたから感謝する次第だ」
田思思は無意識のうちに尋ねる。
「どうやってここに来たの? うちの父は?」
「そんな事は言いたくない。互いに干渉しない事にしたじゃないか」楊凡が笑って答えた。
田思思は歯を食いしばった。
「あなたもここの連中と同じで、葛先生と内通しているかもしれないわね」
楊凡が頷く。
「そうかも。この世には絶対的という事はないからな」
田思思は四方を見回してまた尋ねる。
「他の人達はどこへ行ったの?」
「出てった」
「なぜ出て行けるように放してやったの?」
「葛先生でさえ放してやったのに、赤の他人を捕まえてどうする?」
「なら葛先生はどうして放してやったの?」
「彼はあんたを女房にしようとしただけだ。大変愚かな事ではあるが、だからといって悪い事をした訳じゃない。ましてやこうして酒まで飲ませてくれたじゃないか」
「でも彼は人を殺したじゃないの」
田思思の言葉に楊凡は淡々と答える。
「ならあんたは違うのか? 人というのは本来死ぬようになっているもんだ」
田思思は顔を赤らめて叫ぶ。
「いいわ、いずれにせよ私はいつか彼に復讐をしてみせるわ!」
そして暫し怒りを抑えてからまた尋ねる。
「あの暗器を見せてくれない?」
「嫌だね」
「どうして?」
「嫌だと言ったら嫌なんだ。俺達は互いに干渉しない事に約束したろう」
田思思は地団太を踏む。
「いいわ、いいわ。絶対干渉しないわ。もう行く」
「何をそんなに急いでいるんだ?」
「何を急いでるって? 当然嫁ぎに行くのに急いでいるんじゃない」
楊凡はまた酒を注いで余裕ありげに言う。
「あんたは急いでても俺は違う。行くんなら先に行きなさいよ。いずれにせよそれぞれ好きに行く事にしたんだから。あんたが他人に売られないようにしさえすればいい事だからな」
突然田思思は彼の持っている酒瓶をひったくって床に投げてしまう。それから後ろも見ずに出て行くのだった。
楊凡は溜め息をついてつぶやく。
「ついてるな。あそこに酒瓶がもう一本あるのを見逃しているみたい…」
言い終わるや否や田思思がまた戻って来て「ガシャン」と、残った酒瓶まで割ってしまう。これで少しは腹の虫が治まったと思ったが、振り返ると意外にも楊凡は酒甕を懐に抱いてぐびぐびと飲んでいるではないか。
彼が笑いながら言う。
「酒瓶は投げられるかもしれないが、この酒甕は俺のだ。この酒甕の注ぎ口は俺の口にもぴったりだな」


田思思は歩きながらも腹を立てて当り散らした。「死になさいデブ野郎。うわばみ、猪八戒…」
そうして当り散らしていた彼女が突然笑いを浮かべた。
田心が書こうとした「お嬢様南遊記」には僧侶と孫悟空はいたが、今は猪八戒まで加わって配役がかなり完璧になりつつあったからだ。本当にそのような本が出たらどれだけ面白い事か。田心もこの話を聞けば口が裂けるほど笑うだろう。
「だけどあの口尖がり娘は一体どこにいったのかしら?」
田思思は笑うや否や無意識のうちに溜め息をついた。だが今度の溜め息はさほど絶望的には聞こえなかった。いずれにせよ背後に保護してくれる人間がいるというのは決して悪い事ではない。
猪八戒の外見は愚鈍そうだが、その熊手を振るえば大変驚異的だ。猪八戒がいなければ唐の僧侶は西方まで行けなかったかもしれないだろう。
猪八戒は本当に愚鈍だろうか?
豚の目から見た場合、この世で最も愚鈍な動物はあるいは人間やも…。

第七章 お嬢様と猪八戒


東に日が昇る。
田思思は何とか目を開けようとしたが、引き続き閉じたままだった。実際彼女はあまりに疲れ果てていた。絶対にここで寝てはならないと思ったが、堪えようがなかった。
朦朧とした意識の中で誰かの呼ぶ声が聞こえて来るようだった。
「お嬢様、田お嬢様…」
誰が呼んでいるのだろう?
どこかで聞いた事のある声だった。
田思思は目を開ける。呼ぶ声は段々と近づいて来ていた。彼女は顔を突き出して外を見渡す。四人組の人間がこちらへ向かっていた。他でもない鉄胳膊に刀傷、銭一套、趙老大であった。
彼らを見た瞬間、田思思は怒り心頭に発した。あの悪人どものせいでなければ、彼女はここまでの境地に陥らなかっただろう。
だがあの者達はなぜ彼女を探しているのか? まだ騙すネタが残っているというのか?
田思思は外に出て、両手を腰に当てたまま彼らを睨み付ける。
王大娘や葛先生は恐ろしかったが、あのような詐欺師どもの前では瞬き一つしない田お嬢様であった。いずれにせよ彼女は田二爺の娘にして、都から来た用心棒頭に勝った事もある。今まで思ってきたほど大した武功ではなくとも、ある程度の実力は備えているはずだ。
意外にもこれら四人は彼女を見ると逃げるどころか、満面に笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。
田思思は彼らを睨みつけて口を開く。
「何の用で来たの?」
銭一套はそれでも微笑を浮かべて口を開く。
「我らは丁度田お嬢様を探している最中でした」
田思思は冷笑する。
「敢えて私を探していたというの? 本当にいい度胸をしているわね」
突然銭一套が膝をついて言う。
「我々は田お嬢様の身分を知らず、罪を仕出かしました。平に御容赦下さい」
その後ろで残る三人もやはり一斉に膝をついた。趙老大が包み二つを差し出して言う。
「これは田お嬢様の髪飾りで、こちらの方は銀子七〇〇両です。お嬢様が以前の咎をお責めにならず、お納め下されば誠に感謝いたします」
意外な事に彼らにも良心が残っていたのか、あまりにも平身低頭な態度である。むしろ田思思の方がきまり悪いくらいだ。無論、若干は意気揚々でもあった。
彼女は顔を強張らせて言う。
「過ちを悟ったの?」
「ははっ、私めが死に値する罪を犯しました…」
四人が笑いを浮かべた表情で同時に答える。
田思思はすぐに緊張が解けて、そのまま立ち上がらせようとした。大の男四人が彼女の前で膝をついている場面はさほど格好の良い姿ではない。
だがどうした事か、最後の一言を言い終えた瞬間に彼らのこめかみに穴が開いた。穴から真っ赤な血が噴き出し、笑いによって生じたしわの間に流れ落ちる。
四人は固まった表情で呆然としているのみ、悲鳴を上げたりもがいたりもしない。八つの瞳は真っ直ぐに田思思を眺めていたが、ゆっくりと下に落ちていった。
田思思はぎくりとした。
彼女は四人の頭になぜ穴が開いたのかも分からないまま、彼らの顔に浮かんだ微笑が強張っていくのを眺める以外になかった。
誰が彼らを殺したのか? どのような方法で殺したのか?
田思思の頭の中に梅姉さんが死んだ時の姿が思い浮かんだ。一瞬のうちに手足が冷たくなる。
葛先生であった!
田思思は悲鳴を上げて振り返る。後ろには誰もいない。ポプラの木一本だけが鋭い風に揺れているだけだ。
彼女が再び振り返った時、驚いた事に葛先生が四体の死体の後ろに立って冷たく彼女を眺めていた。夜の為か、着ている木綿の衣服が喪主の着る麻の白衣のように見える。
彼の顔は依然として冷たく表情もない。真っ直ぐに立ったまま少しも動かず、まるで死人のようだった。四人がまだ生きていた時からその場に立っていたかのようだ。
田思思は魂が抜けたかのように驚いて、咄嗟に口を開く。
「こ…ここにどうして来たの?」
葛先生は淡々と答える。
「聞く事がある」
「何よ?」
「いつわしの所へ嫁に来るつもりだ?」
同じ質問、同じ答であった。口調すら変わらぬ問答であった。田思思はなぜあのように愚かな質問をしたのか自分でも理解出来なかった。
実際にはあまりに驚いて慌てていた為に尋ねたのだ。あまりに恐ろしく極めて緊張していて、自分でさえ制御出来ない状態だった。

葛先生が口を開く。
「この者どもはわしが呼んだのだ」
「わ…分かるわ」田思思は必死に頷く。
「おぬしの持ち物を返してくれたのに、なぜ受け取らん?」
田思思は依然として必死に首を頷く。
「いらないわ、何もいらないわよ」
頷きながらいらないという姿が、哀れでもありおかしくもあった。だが葛先生の目には憐憫や笑いのようなものは全く浮かばない。
彼が淡々と尋ねる。
「おぬしには必要ないやもしれぬが、わしには必要だ」彼は包みを拾い上げてゆっくりと言う。「嫁入り道具の一部なのだから」
田思思は悲鳴を上げる。
「何でも必要ならあげるわ…。私はそれよりもずっと沢山の装身具を持ってるわ。それを全部あげるから、お願いだから結婚だなんて事は言わないで」
葛先生の答は冷たい。
「何事があろうとも嫁に来なければならん。約束したのだから」
田思思は無意識のうちに顔を上げて彼を眺める。一度もこうして正面から彼を眺めた事はなかった。
だが敢えて見ない方が良かった。彼を見た瞬間、全身が冷たい氷の池に落ちたように寒気に包み込まれたのだ。彼の顔には笑いもなく血もなかったが、血を流して死んだ四人の笑顔よりもさらに恐ろしかった。
「私は約束なんかしてない、してないわよ…」
そうして身を返し、狂ったように逃げ出した。
ほんの少しまではこれ以上一歩も動けないようだったが、今は悪魔の力でも借りたかのように一気に遠くまで走っていく事が出来た。彼女は振り返って後ろを確かめたが、風が吹くのみで人はいない。
葛先生は追って来なかったのだ。彼は田思思が逃げられないという事を知ってか、全く慌てる必要はないかのようだ。追わずとも、どこにいようとも、彼の影は悪鬼のように田思思の後を追っていた。
田思思はまた転んだ。今度は大きな通りだった。
ぼやけた朝の霧が煙のように立ち昇っては四方に散る。その霧の中から、馬車の音と軽い蹄の音が聞こえて来た。さほど遠くはない。何者かが低く歌をつぶやく声も聞こえる。
田思思はぱっと目が覚めた。全力を振るって立ち上がってみると、真っ黒な馬車一台が霧を突き抜けて来るのが見えた。車を駆るのは白髪が蒼々たる老人であった。
田思思は一層心が落ち着いた。老人というのはいつも、若者よりも親しく感じられるものだ。
田思思は手を振って叫ぶ。
「お爺さん、差し支えなければ私を少し乗せて行ってくれませんか? ちゃんとお礼はしますから」
老人が口笛を吹きながら手綱を引く。車を止めた彼は上下に田思思をじっと眺めてから、ゆっくりと口を開いた。
「お嬢さんはどこへ行くのかね?」
どこへ行くのか?
この質問は真に田お嬢様を動揺させた。
家に変えるべきか?
このような有り様でどうして家に帰れるというのか? 父が叱らなかったとしても、他の人間達は腹を抱えて笑う事だろう。家を出て一日のうちに持ち物をそっくり失くした上に身なりまでもがこのような様になっては体面が丸潰れであった。
(田心、あの娘は本当に無事に抜け出したのかしら? あの娘が私よりもまだましだわ)
田心を探しに行くべきか?
どこへ行けば見つかるだろうか? 田心はどこへ抜け出したのか?
家にも帰らず、田心を探しにも行かないのであれば、残るは江南だけである。家を出たのも元々は江南へ行く為であった。だが二〇〇里も行かないうちにこの様になり、財布も空っぽだ。こうなっては彼女一人で江南まで行けるだろうか?
呆然と道端に立っている田思思の目からは今にも涙が流れる所であった。再び上下に彼女を眺めた老人が口を開く。
「お嬢さん、どこかで強盗にでも会ったのかい?」
田思思は頷く。彼女が出会った人間達は強盗よりもはるかに恐ろしい者達であった。
老人は溜め息をついて首を振る。
「いい娘が一人で外に出てはいかん。最近の世の中が変わってあらゆる悪人が増えたから…ふう…」
老人がまた溜め息をついてから言葉を続ける。
「とりあえず乗りなさい。わしが家へ送ってあげるから」
田思思はうつむいたままたどたどしく言う。
「私の家はとても遠いの」
「遠い? どれくらい?」
「江南です」
老人は驚いて苦笑いを浮かべる。
「江南とは、それじゃあどうしようもないな。どうしよう?」
田思思が目を瞬かせて言う。
「お爺さんはどこへ行く途中ですか?」
しわだらけの老人の顔に笑いが浮かぶ。
「今日は親戚の家でめでたい事があって、祝い酒を飲みに行く途中なのさ。それで客を乗せずに一人で行くのさ」
田思思は暫し悩んでから言う。
「なら一旦お爺さんが行く所まで一緒に行ってからもう一度考えます」
彼女は鬼神が出て来そうなこの恐ろしい場所から離れたい一心だった。遠く離れるほど良かった。
老人は暫し考えてから涼しげに言う。
「よし、こうしなさい。お嬢さんは強盗に会ったんだから、お代はいいよ。目的地に着いたら旅費も少しあげよう」
田思思は感激して言葉すらまともに出なかった。
この世には確かに良い人もいた。ついに彼女もそんな人間に出会ったのだ。
馬車は長い間走った。揺れる車の上で老人は依然として低い声で歌を口ずさむ。田思思は精神が朦朧としてすぐに眠りに落ちた。
夢の中で彼女は大変幼かった頃に戻っていた。亡くなった母が彼女の寝る揺り籠を揺らしながら、低く子守唄を歌う夢であった。
あまりに美しく甘い夢である。だがいかに美しい夢と言えどもいつかは覚めるものだ。
田思思は爆竹の音に驚いて目を覚ます。車はすでに止まっていた。外で彼女を眺めている老人は、彼女が目を覚ますや笑って言う。
「親戚の家に着いたから降りなさい」
田思思は目をこすって外を見渡す。
外には石造りのさほど大きくない家が一軒建っている。家の前にはかなり広い庭があり、周辺は一面の麦畑だった。まさによく実った麦達が日差しを受けてまぶしい黄金色を放っていた。庭には鶏数羽が鳴き声を上げながらあちこち走り回っている最中だ。先程の爆竹に驚いた様子だ。
家の内外には大きな赤い色の「囍」の字が掛けられ、老人も子供も皆新しい服を着て喜んでいた。
田思思は急に心が痛む。不意にここのすべての人達が自分よりも楽しく、また幸せだという考えが浮かんだ。特に今日の新婦はこの上なく麗しく楽しい気分であろう。
(私…? 私はいつこういう日を迎えられるかしら?)
田思思は唇をそっと噛んで馬車から降りた。彼女は老人に向かってうつむきながら言う。
「ありがとうございます、お爺さん。旅費は必要ありません。ここまで連れて来ていただいただけでも本当に感謝しています」
後に行くほど喉が詰まって、これ以上声にならなかった。
老人が彼女をじっと眺めた。彼の表情には同情が浮かぶ。
「これからどこへ行くつもりだい?」
田思思はさらに深くうつむいて言う。
「当てはあります…あまり心配しないで下さい」
老人は長く溜め息をつく。
「こうしよう。お嬢さんが急ぎでなければ、ここに入って喉を潤わせてから行きなさい」
この言葉が終わらないうちに横で誰かが口を挟む。
「そうだよ、せっかくここまで来たんだから祝い酒を飲まなきゃ、うちの村の者を軽んじる事になるぜ」
また別の人が言う。
「ましてや俺達は客が少ないんじゃないかと心配なんだ。卓が二つだけなんだが、まだ埋まってないんだ。お嬢さんが参席してくれたらこれほどいい事はない。ささ、入って」
それで田思思は人々が出迎えに来たのを悟った。金簪に金の腕輪をした婦人二人が田思思の手をつかんで引っ張った。髪を二つに束ねた子供も後ろから彼女を押して手を貸す。彼らだけを見てもこの村の人々が大変親切で客好きだという事が分かるようだ。
不意に田思思は胸が心温まるのを感じた。確かに口では少し辞退したが、彼女の体はいつの間にか家の中に入っていた。
外では再び「パンパン」という爆竹の音が炸裂する。
一組の華燭が灯された。揺れる火があたかも子供たちの笑顔を連想させる。
あちらこちらに置かれた卓毎に大きな器一杯の鶏肉やアヒルの肉、魚などが盛り込まれている。このふんだんな食卓がここの人々の楽しさと豊かさを分からせてくれていた。
人生には畢竟楽しい事も多い。不幸に出会って困難に陥った人間がそれに耐えねばならない理由は、不幸が過ぎた後は間違いなくそれに見合った補償があるからだ。
田思思は大変嬉しかった。以前の不幸はすでに彼女の元から遠く過ぎ去った。
彼女は左側の卓にある主客の座に座る事になった。老人の真横である。この卓には五人だけが座っていた。祝い酒を飲みに来た人々は確かにそう多くはない。彼女を除けば皆親戚や親しい友人のようだ。
全員が好奇心に満ちた視線で彼女を眺めると、彼女も気まずかったのか老人に向かって口を開いた。
「私は贈り物に差し上げる物もなくて、申し訳なくてどうしようかしら?」
老人がにっこりと笑う。
「必要ないさ、贈り物までやる必要はないよ」
「どうしてあげる必要がないの?」
「何しろ急に決まった婚礼だから、誰も贈り物を準備出来なかったから」
「そうかしら? 婚礼というのは長い時間を掛けて準備するべきなのに、どうして…」
老人が彼女の言葉を遮る。
「普通の人なら長く掛かるだろう。だけど今回は違う」
「何が違うの?」
老人は暫く沈黙してから、再び口を開く。
「新郎と新婦が特別だから」
田思思はさらに興味を感じた。それで聞かずにはいられなかった。
「どこが特別なの? その方達はお爺さんとどんな関係なんです?」
老人は笑って答える。
「新郎がすぐに到着するから、その時よく見たらいいさ」
「新郎がすぐに到着するというけど、新婦はどこにいるのかしら?」
老人がどこか不思議な微笑を浮かべて言う。
「新婦はこの家にいるよ」
「家に? どこにいるのかしら?」
彼女は周囲を見回して確かめる。彼女と老人を除けば家の中にいる人間はせいぜい六・七人程度だった。先程彼女を連れて来た婦人二人は向かい側に座っている。二人は顔に塗った化粧が全部落ちそうなくらいに田思思に向かってにこやかに笑う。五両にはなりそうな量だった。
「不細工な人ほど厚化粧をするというのは、本当にその通りだわ」
田思思は内心でケラケラと笑った。見れば見るほど不細工な人達であった。やや若いように見える方はさらに不細工に見えた。
田思思は低い声で尋ねる。
「もしかして向かい側のあの方が新婦かしら?」
老人が首を振ってにっこりと笑う。
「あんなブスの新婦がどこにいるもんかね?」
田思思は内心で顔も知らぬ新郎の為に安堵した。あのような新婦を迎える者は、前世で大罪を犯した者であろう。
彼女の観念としては新婦は絶対にきれいでなければならない。最小限他の人達よりはきれいなはずだ。ところがこの部屋で最もきれいなのはその婦人だけだった。それ以外にやや見れそうな人がもう一人いたが、すでに子供がいそうな年齢であった。
田思思はおかしいと感じながらも尋ねる。
「もしかしてあの方?」
「とっくの昔に結婚してるのに、どうして新婦になれるものかね?」老人が笑って答えた。
「あの方でなければ一体誰かしら?」
周りの目があるので引き続き四方を見回す事はできなかったが、依然として周辺をきょろりと見ながら彼女が言った。あの二人を除けば全員男ばかりである。いかにもおかしい話だ。
「一体新婦はどこにいるの? どうして姿が見えないのかしら?」
「時間が来れば間違いなく現れるから。まだ新郎も来てないのに、どうしてお嬢さんがそんなに慌てるのかね?」
田思思は顔を赤らめて口をつぐんだが、それも暫し、再び尋ねる。
「新婦はきれいかしら?」
老人は一層不思議な微笑を浮かべてみせる。
「もちろんきれいさ。この家で一番きれいな人さ」
彼は再び田思思をじろりと見る。
また顔を赤らめてうつむいた田思思の視界に、新しい作りたてのような長靴が入って来た。靴の上には真っ赤な婚礼服が見える。
ようやく新郎が現れたのだ。
新郎はどんな人間だろう? 醜男だろうか、美男だろうか? 若いか、それとも年を取っているだろうか?
だが田思思は顔を上げて新郎を見るのは失礼だという考えがあった。いずれにせよ彼女はまだ未婚の乙女であり、この家の人間達とは親しい間柄でもない。
だが意外にも新郎の足は彼女に向かって歩みを進め、その前で立ち止まる。田思思がおかしいと思っている間に、家の人々が一斉に拍手し始めた。
誰かが笑って言う。
「本当に善男善女だな。生まれついての良縁だよ」
他の人々の声も聞こえて来る。
「新婦が本当にきれいで、幸せ過ぎるよ。間違いなく幸せに恵まれた子が生まれるだろう」
田思思はこれ以上我慢出来ずに、老人の服を引っ張って静かに尋ねる。
「新婦は誰なの?」
「お嬢さん自身さ」老人が笑って答える。
「私が新婦ですって?」
田思思は笑いを浮かべた。老人が冗談を言っていると思ったのだ。だが笑いを浮かべた瞬間、何かが間違っているという事を悟った。冗談にしてはあまりに度が過ぎている。
人々は依然として拍手をし続けている。
「新婦は何をしているんだい。早く礼をして新郎と一緒に寝室に入らなきゃ」
新郎の両足はその場に打ち付けられたように全く動かない。田思思はついに耐え切れず顔を上げて彼を眺めた。
その瞬間、彼女は棒切れにでもなったかのように全身がガチガチに固まった。魂魄までもが遠くへ飛んで行ってしまったかのようだ。
新郎は赤い婚礼服に新調した靴を履き、頭には房の付いた烏紗帽を被っている。飾り立ては普通の新郎と全く違う所はない。
だが彼の顔は――この世で二つとまた見つけ難い顔である。
人間の顔とはとても言えないほどであった。
陰惨で冷たい顔には何の表情もない。死んだ魚のような瞳だけが座しているのみ、表情などは一切なかった。
彼は少しも動かないまま、目すら瞬く事なく田思思を眺めて立っている。田思思が生まれる前からその場に立っていたかのように!
葛先生であった!
田思思は体から力が抜けていくのを感じたが、座る事も出来なかった。歯がカチカチと音を立ててぶつかる。彼女はまるで屠殺場に引かれていく豚のような気持ちになった。
彼は全ての事を準備していた。寝室に華燭、客達までも完璧に準備しておいて彼女を連れて来たのだった。
田思思は泣くに泣けず、声を張り上げたくとも張り上げられなかった。
じっと彼女を見ていた葛先生がゆっくりと口を開く。
「いつ嫁に来るのかと二度も聞いたが、答がなかったのでわしの好きなようにした」
「わ、私は…」
喉が詰まって声が思うように出ない。
葛先生が言う。
「この婚事は極めて合法的なものだ。仲人まで立てたのだから」
「そうさ。わしがまさに仲人だよ」老人が言う。
二人の婦人もケラケラ笑いながら口添えする。
「私達は新婦側の世話係よ」
「ここにおる者達が全員証人なのだから、誰も反対する事は出来ん」
田思思はその場に倒れてしまいそうだった。もはや逃げ出す力すら残っていない。
逃げ出せた所で何になろう? 結局は葛先生の掌中であった。
(本当にこのまま彼と寝室に入るしかないの?)
「がたん」という音と共に彼女は床に崩れ落ちた。
まさにこの時であった。誰かの声が聞こえて来る。
「他の者ならこの婚事に割り込めんが、俺は違うぞ」
このように言う者は背が低くて太った青年であった。丸い顔に目は細長く、広い額はぽっこりと突き出していた。おまけに眉の間も他の人間より倍も広い。口も大きく頭も大変大きくて、どこか奇怪な外見であった。
だが彼の態度は大変余裕があって落ち着いていた。のみならず、どこか粋があるようにも見える。
彼は右手の卓に一人座って左手には杯を、右手には酒瓶を持っていったる。あまりにも大きい杯である。だが彼は一度に酒を全て注いだ挙げ句に、飲むのも極めて速い。今までどれだけ飲んだのか推測するのも難しかった。
おかしいのは、人々が少し前までこの部屋にこのような人間がいたのに気付かなかったという事だ。彼がいつ入って来たのか、いつからそこに座っていたのか、知る者は誰もいない。その為に彼を見た瞬間、人々はぎくりと驚いた。
葛先生だけが依然として表情のない顔で淡々と口を開く。
「おまえは何か言う事があるのか?」
青年は溜め息をつく。
「俺も言いたくないが、口を挟まない訳にはいかなかった」
「何をだ?」
「この婚事は確かに極めて完璧だが、一つ誤った事があるというのさ」
「何が誤ったというのだ?」
「そのお嬢さんが新婦だというなら、新郎があんたのはずがない」
「わしでなければ誰だというのだ?」
青年は酒瓶の先で自分の鼻を指してにっこりと笑う。
「俺さ」

ブログ管理者:ZED
現在、チャンネルNECOで放送中の「流星剣侠伝 大人物」の放送に合わせて、原作小説版「大人物」を翻訳連載中です。
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